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シャネルの人生中編「革命の最前線にいたかった」

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今回はシャネルの人生パート2です。

これから先、彼女はどうなっていくのでしょうか?

では続きをどうぞ。

【前回までのおさらい】

地方出身で孤児院育ちのシャネルは、それらのコンプレックスをばねにして、これまで当たり前だった女性のファッションを壊し、まったく新しいスタイルを作っていきました。

「ひとつのモードが終りを告げ、もうひとつのモードが生まれ出ようとしていて、その時代に、私はいた。チャンスが到来し、あたしがつかんだというわけだ。新しい世紀の児(こ)であるあたしに、服装上の表現がまかされたのだ」*1

 

30代ですでに独自のスタイルを確立し、成功の階段を瞬く間に登って行ったシャネル。その勢いはとどまることを知らず、彼女の人生はますます加速します。

ハリウッドへの進出、英国一の大富豪との交際、そして世界を虜にする伝説の香水「シャネルNo.5」が誕生します。

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目次


皆殺しの天使

カペルの事故死の後、ただひとりの女友達ミシアの助けもあり、つらい経験を乗りこえたシャネルは、より一層仕事に打ち込むようになります。

 

この頃には社交界で理想とされてきた、こった衣装に身を包む女性はすでに流行遅れとなっていました。

 

旧時代のものを一掃し、新時代のファッションをつくりだしたことから、彼女は「皆殺しの天使」と呼ばれました。

 

華やかな交友関係

ファッション界で成功した後、シャネルの交友関係は非常に華やかです。

画家のピカソ、ダリ、ブラック、音楽家のストラヴィンスキーエリック・サティ、詩人のジャン・コクトー、その若き友人の作家のレイモン・ラディゲ、バレエの演出家のディアギレフなど、一部の名前を挙げただけでも大変なものです。*2

 

ミシアをお手本にし、シャネルも芸術家のパトロンとなり、経済的に支援するようになります。

ある日、ダリ夫人のガラが、ピカソに対する世間の評判が高いことに腹を立てて、ピカソをこき下ろします。それに対して、シャネルは「彼は、あなたが言うほどばかでもないし、世間が言っているほど天才でもないわ*3」と言っています。

ガラが「じゃあ、あなたはダリをどう評価するの?」と言い返します。シャネルは、自分の皿の上に一粒残っていたグリーンピースを、指でピーンと弾いて、「ほら、それよ」と言いました。*4

 

そうそうたる人たちと交流していく中で、37歳になった時、彼女は新しい恋に落ちます。

 

相手はロシアのディミトリ―大公。ハリウッド映画から抜け出たようなイケメンです。

 

彼女はロシア貴族からの様々な影響を受けて、仕事に生かしました。

 

その中のひとつがコスチューム・ジュエリー(模造装身具)でした。

 

本物に見えるように装飾したアクセサリーのことです。

これは宝石好きな上流階級出身の女性たちへの挑戦状でもありました。*5

 

彼女は女性に向けてこんな批判もしています。

「100万の女のなかで、利口なおんなはたった5人だろう。誰がこんなことを、女にむかって言えるだろう。あたしだからこそ言える台詞である」

 

「肉体の美しさを精神の美しさにうつしかえてゆくこと。これこそが唯一のりこえてゆく方法で、ほとんどの女たちに欠けていることだ。女は体を美しくする方法については話すことがあっても、精神の上の美しさについては全く忘れてしまう。美容とはまず心の美しさから始めなければ、化粧品なんて、なんの役にもたたぬものだ」*6

 

伝説の香水「シャネルNo.5」

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(Photo:Wikimedia Commons

 

詩人ポール・ヴァレリーの「香水をつけない女に未来はない」という言葉がお気に入りだったシャネルは、ディミトリ―大公からの紹介で、エルネスト・ボーという調香師に出会います。

 

ボーは「白夜の北極圏の河と湖の新鮮な香り」の香水が作れるという直感を持っていました。

 

その熱心さに打たれた彼女は彼を励まします。

 

そしてついにボーは、ナンバー1~5、ナンバー20~24と番号のつけられた試作品を持って、彼女の元に訪れました。

 

シャネルが選んだのは「No.5」。

 

香水の名前もその番号名を使いました。

 

それまでの香水は、花の香りを基調とし、使う種類は1~数種類で、香りもすぐに消えてしまうものが一般的でした。

 

しかし「シャネルNo.5」は野生動物や植物のエキスに化学物質を混ぜ合わせ、80以上もの成分を調合。これは発明といってもいいほど斬新なものでした。

 

また、香りだけではなく、容器のデザインについても注目されました。

 

旧時代のようなこった容器や品名が定番でしたが、「シャネルNo.5」は何の飾りもないシンプルな角形の容器、そして品名も白地に黒い文字が印刷されているだけでした。

 

その後、この容器は1959年にニューヨークの近代美術館に収められます。

 

ちなみに彼女は5という数字を、自分のラッキーナンバーだと考えていました。

 

コレクションを2月5日と8月5日に開いたり、「シャネルNo.5」のデビューが5月5日だったりしています。

カペルから神智学の手ほどきを受けていたシャネルは、五という数字の重要性を知っていたというのです。つまり錬金術が言う第五元素、古代哲学で宇宙を構成する数字に由来するという説に加え、かつて自分が育ったオバジーヌの孤児院の廊下が五芒星のモザイクだったこと、さらに自分が占星術の五番目の星座である獅子座の生まれだったことから、五は彼女の潜在意識に深く刻まれた数字だったというわけです。*7

 

そして多角経営を目指して香水業界に参入したことにより、この香水が莫大な利益をもたらすことになりました。それはファッション以上に、シャネルの名を世界に知らしめることに貢献したともいわれるほど大成功を収めます。

 

その当時、人気絶頂だったマリリン・モンローはインタビューで、「夜に寝る時は何を着ますか?」と聞かれ、「シャネルNo.5」と答えます。

 

その影響もあり、「シャネルNo.5」は流行に左右されない伝説の香水として世界中に広がっていきました。

 

英国一の大富豪との交際

40歳代で富裕な国際的有名人の仲間入りをはたしたシャネルは、ウェストミンスター公爵と交際します。

 

公爵はイギリス皇太子や政治家のウィンストン・チャーチルとも親しく、本物のセレブでした。

 

公爵がひと目ぼれし、彼女も真剣に付き合い、結婚についても考えていたといわれています。

「たしかに、わたしは愛がほしかった。でも、愛する男性と服づくりのどちらか一つを選ばなければならなかったとき、わたしは服づくりを選んだの」*8

 

公爵は男の後継ぎが欲しかったのですが、二人はさんざん考えた末に別れます。

 

他にも、こういう話が残っています。

「ココはウェストミンスターに『もし子どもが出来たら結婚するわ』と答えていた。『そのときは結婚することにとても満足できるでしょう。そうでないなら、何のことがあるでしょう。人は安心や名誉のために結婚するんだわ。そんなことはあたしにはなんら興味のないことよ』」*9

 

その後公爵は、貴族階級出身の女性と結婚。

 

シャネルはまたアトリエに戻っていきました。

 

究極のシック、究極のミニマリズム

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↑「リトルブラックドレス」のデザイン画。

ファッション誌「エル」が「この一着だけでシャネルの名は不滅だ」と宣言し、アメリカ版「ヴォーグ」誌に「革命的ドレス」とたたえられたドレスがあります。*10

 

1926年に発表した「リトルブラックドレス」は、ドレスの常識に革命を起こしました。

第一に、色の氾濫ともいうべきモード界において喪服のイメージしかなかった「黒」を、大胆にも単色で使った点です。

第二に、「ヴォーグ」誌が続けて指摘したように、このドレスが誰にでも着られるという大衆性にありました。同誌はそれをシャネル・フォードということばで表現しています。*11

 

 

フォードとは、当時アメリカで量産されていた黒い車体の大衆車のことです。

大衆向けであり、量産が出来るという部分などが共通していました。

 

シャネルは30年代に入ると、今度は白いドレスを発表します。

「女はありったけの色を身につけようとするけれど、色を取り去ることは思いつかないものなの」

「黒はすべての色を含んでいるの。白もそう。黒と白の美しさは絶対なのです」*12

 

ダイヤモンド

大恐慌の中、シャネルが注目したのはダイヤモンドでした。

 

宝石の内覧会が行われると、彼女のデザインした作品は極めて洗練されていると絶賛されます。

 

そのニュースは大恐慌の中心にあったアメリカの全紙が取り上げるほどでした。

 

ハリウッド進出

1931年代の映画の黄金時代、シャネルはその名を広く知られた大プロデューサー、サミュエル・ゴールドウィンからハリウッドスターの衣装デザインを依頼されます。

 

その時の契約金は破格の100万ドル。

 

当時は大恐慌の真っただ中にあり、彼は観客に最高の夢の世界を与えたいと思っていました。

 

しかし結果は期待していたほどにはうまくいかず、興行収入もいまひとつ。

 

「ニューヨーカー」誌は次のように評しました。「粋ではあるが地味。シャネルは一人の女性を一人前の女性らしくするが、ハリウッドは一人の女性を二人に見せたいのだ」

 

最初はがっかりしたものの、この経験をいかし、実りの多いものにするのです。

 

ストライキ

時代が進むにつれて、新進気鋭のデザイナーが頭角を現してきました。

 

シャネルのデザインは依然として人気が高かったのですが、エルザ・スキャパレリに激しく揺さぶりをかけられるようになりました。

 

社会面に関しては、1930年代の半ばから末にかけては、フランスにとっては大恐慌の悪影響もあり政治紛争に明け暮れた時代。

 

次々とストライキの波が押し寄せますが、彼女は労働者の立場に耳を傾けませんでした。

 

自分も貧しい出であったため、労働者の権利をたてに何か意見を通してもらったことなどない、と思っていたのです。

 

しかし、コレクションを中止しなければならないという事態に直面し、要求をいくつか呑むことになりました。

 

スキャパレリのところでは規模が小さかったこともあり、問題はほとんどなし。

 

ここでトップの座を渡すわけにはいかなかったのです。

 

閉店、そして亡命

第二次世界大戦が勃発すると、シャネルは香水部門とアクセサリー部門を除いて閉店。

 

それからは15年間の休業生活に入ります。

 

戦争開始前に彼女はパリに駐在するドイツ人有力者、ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲと交際を始めていました。

 

フォン・Dは教養のある魅力的な男性でした。ヒトラー政権下で働いていた彼は、実はスパイだったのではないかと言われていますが、いまだ明らかにされていません。

 

しかし、その彼を恋人にしたことで「対独協力者」として疑われ、フランス国内軍から尋問を受けます。

 

それを助けてくれたのは、チャーチルでした。「シャネルは大胆かもしれないが、国益に反することはしたことがない。だから彼女を静かにしておきなさい」と言い、解放させたのでした。

 

ウェストミンスター公爵と別れた後も、シャネルへの敬意は変わらなかったのです。

 

戦時中、「シャネルNo.5」は爆発的な売り上げを見せます。

 

そのため、彼女は経済的には安泰でした。しかし「退屈で、退屈で、死にそうだった」ようです。

 

関わりの深い人達が次々と亡くなっていったことも彼女に追い打ちをかけます。

 

イケメンロシア貴族ディミトリ―大公、彼女をさらった上流騎士バルサン、セレブのウェストミンスター公爵。1950年には、女友達ミシアが薬物中毒で亡くなったのでした。

 

戦後、二人は中立国のスイスへ亡命。

 

悠々自適に暮らすことは出来ましたが、息をひそめて亡命生活を送るのは彼女には合わなかったようです。

 

彼女は目に見えて老けこみ、精彩を欠いていきます。

 

ファッション界の刺激も地位もなくして、寂しく思っていました。

戦前は、服地にはもっぱら絹やウールや綿がつかわれたが、戦後は、合成素材――たとえば、防水処理したものや、アイロンがけのいらないもの、ナイロンや、永久にひだがとれないものなどが、新しい道具として取り入れられた。ココは「この革命の最前線にいたかった」。*13

 

ここまでの年表

  0歳1883年 8月19日シャネル誕生。

12歳1895年 孤児院に預けられる。

17歳1900年 修道院寄宿学校に入る。

20歳1903年 お針子。バルサンと同棲。

25歳1908年 カペルと出会う。

27歳1910年 帽子屋を開店。

34歳1917年 芸術家たちのパトロンに。

36歳1919年 カペルの死亡。

38歳1921年 香水「シャネルNo.5」を発売。

41歳1924年 黒のドレス発表。公爵と交際。

48歳1931年 ハリウッド進出。

53歳1936年 ストがシャネルの店にも波及。

56歳1939年 休業。ドイツ人外交官と交際。

62歳1945年 スイスで亡命生活に入る。

 

 

 

シャネル公式動画

今回のエントリの内容が3分で見れます。

※字幕表示可能です


Mademoiselle - Inside CHANEL

 

 

 

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